保元・平治の乱後、源氏が破れ平氏の世となる。
保元元年(1156年)7月、保元の乱といわれ、後白河天皇と崇徳上皇の皇室内部の争いと、藤原忠通と藤原頼長の摂関家藤原氏の争いが結び対立が激化。源義朝や平清盛と組んだ後白河天皇方が、源為義の軍を主力とする兄の崇徳上皇方を破り、上皇は讃岐に流される。この乱は貴族の無力を暴露し、武士が政界へ進出する大きな契機となった。
保元の乱の後、平清盛と源義朝との間に勢力争いが生じる。これと、藤原通憲と藤原信頼の対立が結び、平治元年(1159年)12月に、平治の乱といわれ、通憲は清盛と、信頼は義朝とそれぞれ組んで戦った。その結果、清盛の軍に義朝方が破れ源氏は勢力を失うことになる
。
源義経は平治元年(1159年)、源義朝と常盤との間に、義朝の九男、今若、乙若につづく常盤の第三子として誕生し、牛若と名付けられた。
父義朝が破れた後、清盛の温情ですくわれた常盤の子供達は今若と乙若は寺に預けられ、四歳の義経(牛若)は、母・常盤御前(ときわごぜん)と離され京都山科へ移された。牛若を不憫に思った母・常盤は、頼朝の祈祷師・鞍馬山の別当東光坊の阿闍梨蓮忍(れんにん)の所へ預けた。
7歳の時に牛若は鞍馬寺に入った。
鞍馬寺の奥から貴船渓谷一帯は昔、僧正ヶ谷と呼ばれていた。この地帯は牛若が天狗と出会い、剣術・兵法をを習得した場所といわれている。
その後の義経と弁慶の出会いは義経が笛を吹きながら京の五条の橋を渡ろうとしていたある夜のこと、長刀を持った武蔵坊弁慶が両手を広げて義経の前に立ちふさがった。奪い奪って999本。さあ千本目となる太刀を渡せという。義経が構わず通り過ぎようとすると、長刀を大きく振りまわして切りつけてきた。これをひらりとかわして橋の欄干に飛び乗った。怒り狂う弁慶は長刀を力いっぱい振り回すが、義経にひらりひらりとかわされて長刀は空を切るばかり。弁慶はとうとう勢い切れて倒れ込んでしまう。こうして弁慶は千本目の太刀を諦めて義経の家来となり、この日から終生忠義を尽くした
成長後の源平の戦いでは一の谷、屋島、壇ノ浦と平家を撃破、ついに滅亡へと追い込んだ義経だが、戦いの後、兄頼朝と不和になり、逃げ延びた奥州平泉で悲劇的な最期を遂げることになる。
勧進帳』9代目松本幸四郎の弁慶 7代目市川染五郎の富樫。
2004年(平成16年)12月国立劇場。
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勧進帳【かんじんちょう】
頼朝に追われ奥州藤原氏を頼って北陸から落ち延びていく際、義経一行は「安宅関」(あたかのせき)と呼ばれる一つの関所を通ることになります。
山伏に化けた義経一行が安宅の関に差し掛かると、富樫という関所の役人に呼び止められます。弁慶は「我々は東大寺再建のために寄付(勧進)を集める僧だ」(ちなみに東大寺は平重衡によって1180年に焼き討ちされた)と言い逃れようとしますが、鎌倉からのお触れには義経たちが山伏に化けているということまで書かれており、嫌疑は晴れません。
そこで、弁慶は山伏の由来を語り、山伏を討つと仏罰が当たると富樫を脅しにかかります。本物の山伏なら勧進帳があるだろうからそれを読めと富樫に言われた弁慶は、たまたま持っていた巻物を勧進帳と偽り、滔々と読んで聞かせます。これが有名な勧進帳の読み上げ、見どころの一つです。
弁慶の見事な勧進帳の読み上げを聞いて富樫はついに本物の山伏たちだと思い、通すことにします。ところが、一行の最後尾で強力(荷物持ち)に化けて歩いていた義経を、富樫は義経に似ていると引き留めます。やむなく弁慶は「急いでいるのにお前のせいで怪しまれた」と義経を杖で打ち据え、さらに止めようとする富樫に弁慶以下家来たちが詰め寄り、関を通ることを半ば無理やり認めさせてしまったのです。
無事に関を通った後、富樫は無礼のお詫びとして酒を持ってきます。弁慶は油断させる罠であると警戒しながら酒を飲み、富樫の所望に応じて延年の舞を舞い、立ち去っていったのでした。
もとへ